テレビも新聞も消滅しない2012年「だって真ん中にあるのは鼻でしょ?」

トッシーさんが新年から「マスが消滅してグローバリゼーションで国民国家の政府の可能性が乏しくなっていく時代」とか言ってるけど、焼きが回ったとしか思えない。時代が「反転」している皮膚感覚はないのかね。

インターネットがSNSによるクラスター化やデジタルデバイドによってもたらしたのは断絶であり、それでも我々は自分たちの物事を進めるために大同小異で連帯しなければならない。そのときに国民国家というものを、あらためて(再)利用しなければならない局面に立っているのではないか。

高田純次が「だって真ん中にあるのは鼻でしょ?」といったのは、卓見としか言いようがない。まさに2012年はこれだ。無根拠な一体感ではない、相容れないことを前提とする連帯の作法だ。

もし国境がなくなれば、新たな国境づくりのために争いが起こるだろう。それよりも、とりあえずの国境を維持して、そのうえで平和を維持していく方がよい。世界の多様性も保たれやすく、人類全体の種の保存にもなる。それが知恵というものだろう。

トッシーさんが理念としての「イマジン」に囚われすぎているのであれば、やはり理念(イデオロギー)というものは知恵を超えず、人間の判断の邪魔にしかならないということになってしまう。

2011年に新聞もテレビも消滅しなかったが、これからもあらたな役割、機能を担いながら、新聞もテレビも生き残ることだろう。もちろん100万部なんて発行している方がおかしいのであって、部数は減るだろうが、消滅なんてしない。

むしろ多様な新聞やテレビが誕生する契機にすらなりうる。「マス」の規模をどう取るかにもよるが、国家規模のブロードキャストは消滅することはないだろう。仮に道州制というオルタナティブなシステムができても、中央は完全になくならないし、まともな大人はその程度の範囲のこと(全国ニュース)は知っておきたいから、知っておいたほうがトクをするからという単純な理由だ。

「貧すれば鈍する」空気が濃厚になってきた

「2010年にやり残したこと…」から1年。もうこんな年の瀬の、こんな時間になってしまった。もう休みたいが、年内に書く時間もないだろうから、とりあえず書く。

繰り返し書いているように、世紀末というのは次の世紀の最初10年くらいは引っ張るものであり、2011年はそういう意味で、前世紀の世紀末を終えた最初の1年ということになる。

そこで起こったのが東日本大震災だが、語弊はあるがこの震災も、この地に生きるものにとってひとつの日常であり、ことさら事件性を持たせなくてもよいような気がする。それによって開いてしまったパンドラのの扱いは別として。

神に対する感覚がなぜ我々だけ違うのか、と考えたことのある人なら、「ああ、これか」と思ったのではないか。これだけ根こそぎやられる民族は、他にはそうないのだ。

そういえば、そうだ――。この、周期的に根こそぎなくなるという経験が、我々の文化、価値観の裏側にべっとりと貼りついている。被害者への哀悼の念を持ちつつ、これが我々の「日常」の根底にあるものだ、日常の一端なのだと考えることもできるだろう。特に、東北文化との関わりにおいては。

震災が3月に起こったのも、興味深い。凍てついた大地にやって来る「春」とは決してのどかなものではなく、野蛮なものだということを再認識した。まるで100年前に書かれたストラヴィンスキーの「春の祭典」(1913年)の世界だ。あらためて津波の映像と曲を合わせてみると、あまりにもマッチしていることに身震いする。

今年いちばん思い浮かべた言葉は「貧すれば鈍する」という言葉だった。経済的に貧しくなって追い詰められた人が、「武士は食わねど高楊枝」という文化を引き継がなくなると、どうなるのか。垣間見ることが少なくなかったような気がする。

もともと「貧すれば鈍する」という言葉の源には、「経済的に貧しくなったからといって、心までいやしくなってはいけない」という故事が確かあったような気がするが、どうだったか。しかし現状、世の中を満たしているのは「貧してるんだから鈍してもしようがないだろ」という開き直りというか、積極的な肯定の空気だ。

ただ、それ自体は、社会の再活性化にもつながるし、そう悪いことでもないと思っている。貧しくて死ぬくらいだったら、持てるものから奪ったっていいというたくましさは、肯定せざるをえない。ただ、もっと違う「卑しさ」の空気が濃くなっていると感じるのは気のせいか。

関係はよく分からないが、震災後に「絆」と言い出されたことは、後に政府が大型増税を打ち出す布石として働いていることだけは間違いないと思う。本当に心から、みんな絆と思っているのか。テレビ見過ぎなバカなババアどもが、洗脳されているだけなんじゃないかと。

そんな絆といえばソーシャルメディアだが、そこに広がっているのは、承認欲求コジキたちのゾンビの群れであり、「絆」を感じられなければ生きていけない(本当はもう死んでるのに)という阿鼻叫喚である。なぜそんなに寂しいのか。

まあ、承認された経験を強く持つ(あるいは自分で無理やり自分を承認する)ことがなければ、そっちに流れてしまうのだろう。ただ、よく引用されるマズローの使い方に、倒錯が見られるような気がしてならない。

欲求段階説とは、すでに「安全の欲求」を満たした人が「所属と愛の欲求」「承認の欲求」という高次な欲求を持つという話だったはずだが、いまは承認の欲求が肥大化して、相互承認(の幻)をやたらと他人に押し付ける(のに成功した)人たちが、そこを手がかりにして自らに対する愛を要求し、所属を要求し、さらには安全の欲求満足を保証しろと声高に叫んでいる…すなわち低次な欲求も満たそうとしているように見える。

見かけ上の承認欲求至上主義者が、なんで自分のより低次な欲求が満たされていないのだ、とゴリ押しして喚くわけだ。…たぶん、その様子が「貧すれば鈍する」という言葉を思い起こさせるのだろう。ソーシャルメディアにおける(芸のない)「セルフブランディング」(人のつながりをカネに代える…それも相手にそうと分からせずに)という言葉の気持ち悪さの理由も、そのあたりにある気がする。

経済的な貧しさが、税金による救済要求につながり、その欲求不満が「絆」という言葉に形を変えて、さらにソーシャル乞食どもの…といったつながりが、なんとなくあるように見えるけど、確かなことはよく分からない。ま、自分が最初で最後の読者であるようなブログに書く備忘録としては、こんなもんでよいだろう。

Googleのホリデーシーズン

いまGoogleのトップページに行って、ボタンを押すと、「ジングルベル」のメロディがひとしきり流れてから、「ホリデーシーズン」の検索結果が表示される。かわいいね!おしゃれだね!…とみんなでキャッキャウフフしたいところだが、共有できるひとなんかいない。こんやは聖なる夜だ。リア充たちはネットにつながっていないし(じゃ何につながっているのか)、非リアだってこのときばかりはアリバイ作りのためにネットを絶ち切って声をひそめている。ということで、この「ジングルベル」を聴いている人は意外と少ない気がします…というエントリーをして「ホリデーシーズン」の検索結果のどこまで表示されるのかテスト。

テスト

ガラケーから投稿。もしかしてスマホより使い勝手いいんじゃねえ?ていうか、とっくに女子高生とかやってるから。カー!遅れすぎ!もしかしてモバゲーとか超おもろかったり?ありえねーw

そんなまとめて
書かないでさ

改行したらいいのよ


もちょっと簡単な改行ない?

興奮できるクラシック音楽番組をテレビで見たい

さて、死ぬ前に言っておけばよかった、ということはないだろうか。そういえば、日本のエンターテイメントの刺激が弱すぎるというか、幼稚すぎるというのはあるな。

無論、カネや時間をかければ、もっと面白いのに巡り会えたかもしれないのだが、そうじゃなくて…。意外と「もっと面白いテレビ番組を見たかったな」という不満なのかもしれない。

食い物だって、インスタントラーメンばっかりじゃイヤだろ?たまにだって、あんなクソマズイもんは食いたくない。というか、ラーメン自体、あまり食いたくない。なんであんなもんがもてはやされているのか。二言目にはラーメンとか、舌がバカになっているとしかいいようがない。

まあ、ラーメンがうまいものに入る世の中だから、エンターテイメントだって、そううまいものが出るわけはないよな。はっきり言って、何もかもが子どもダマシだ。エンターテイメントだけじゃない。報道だってそうだ。

ただ、「ジャーナリズム」とか「大人のエンターテイメント」とかいうお題目を掲げてしまうと、ロクなことにはならない。人の好奇心を無視した、形式的な、権威のようになってしまったものは、幼稚なものより意味がないし、タチが悪い。

モダンジャズとかクラシック音楽という言葉があらわすイメージは、まさにそんなタチの悪い状況になってしまった。まず、文部省の教育が悪かったんだろうね。クラシックの代表とされているベートーベンの「運命」なんて、相当に異常な音楽だよ。

クソ面白くもない素材を展開して、あれだけの緊張感を維持した時間をもたせるということ自体が「奇跡」であったとしても、本当のエンターテイメントかというと、疑わしい。

だからといって、名曲選といえば「マドンナの宝石」とか「軽騎兵序曲」とか、急にコンペイトウみたいな甘さになっちゃって。名曲選にあがる曲って、たいがい名曲じゃないぜ。名物に美味いものなしw

例えば、辛口ならバルトークの弦楽四重奏とか、

甘口のプーランクのソナタとか、

日本が生んだ天才、三善晃とか、

そういうのをテレビで取り上げるべきだね。それも、コンサートホールでの演奏会の収録じゃなくて、スタジオの収録で、カメラワークにも格好よく凝っちゃったりして。さすがにオケはスタジオ収録は予算かかりすぎかもしれないけど。音楽室で音だけ聴いてもピンとこないもんだけど、演奏している姿と一緒に聴くと、だいぶちがうんだよな。

いまはどうか知らないけど、日本の若いクラシックの演奏家というのは、技術的にはめちゃくちゃレベルが高かったはずだ。しかし、表現を鍛える場が少なかったし、表現を評価する土壌もなかったから、海外では通用できる割合が低かった。なんたって究極のゴールがN響だからさ。

そして、日本のオケの演奏は、総じてつまらない。その「できない(できていない)理由」について語るのは、面倒だからやめにする。例えば、若手の演奏家が弦楽四重奏団を組んで、あるいはピアノと一緒に器楽ソナタを、週に1回くらい30分くらい演奏できる番組があったら、けっこう楽しめたんじゃないかな。

N響でジジイのコンマスに頭を抑えられ、集団の中に埋没して生き長らえるのを良しとするのか、個人の魅せる表現を磨くことに挑戦するのか。

そういう挑戦の場ができれば、演奏者の本当の質も上がるし、観客の目も超えるし、オケのレベルもあがるんじゃないか。そんなコンテンツがYouTubeとかで海外に流れると、日本すげえなwwとか、そういうことになるといいよなあ~。

小言に耐えてはいけない

母が検査の結果、肺に腫瘍があるということになったらしい。悪性であろうがなかろうが、病気であろうがなかろうが、もう20年は生きないだろう。あと10年くらいで平均寿命かもしれない。

実の母がこの世を去ることは、あまりイメージしにくいが、確かにショックを受けることになるかもしれない。それは、死ぬとは思わなかった人が死ぬ意外性であり、自分も例外なく死ぬことの何よりの証左と思われるからだ。

で、別にそれをあらかじめ準備していたわけではないが、ロラン・バルトの「喪の日記」をパラパラ眺めたりしていた、今日このごろ。母の死を機に書き留められた、論文でも小説でもない断片。286頁には、あの『明るい部屋』の一節、

「母は、わたしたちが一緒に暮らしたあいだずっと、ただのいちども<小言>をいわなかった」

の元となる文章が3つほど、推敲されているのが興味深い。特に、

「マムは、いちどもわたしに小言を言わなかった――だから、わたしは小言には耐えられない」

という文を読んで、微笑ましくなった。

いまの日本の「ゆとり」君たちは、会社でおっさんたちに理不尽だったり正論だったりする小言を言われながら、それを受け入れることが自分の成長には当たり前と言い聞かせて、日々を生きている。しかし、そんなことをしても、ロラン・バルトになれないどころか、ひたすら遠ざかっているわけだ。

もし自分がロラン・バルトになりたければ、まずは「わたしは小言には耐えられない」と表明して、その場から去るべきだ。その手の成長は拒むことだ。これは非常に重要なことだと思う。

老眼と高血圧

本を読もうとして、活字が相当見えにくくなっていることが判明した。老眼が進みすぎたらしい。老眼鏡をかけていないから分からないが、もう見えないものと考えていいのだろう。すなわち、私の人生における活字からのインプットは、おおかた終わってしまったということだ。まあ、いまでもアウトプットに要する資源の半分くらいは、20歳以前に仕入れたような気がしていたこともあり、そう大勢には影響はないと予想される。しかし、フィジカル(身体的/物理的)な理由でインプットを断念することは想定していなかったので、あーこんな日が来るものかという感慨がある。

ときを同じくして、血圧も急上昇している。上が155、下が105というのが常態で、頭は痛いしダルイし、食事のあとなどはさらに上がって、気分が悪くなって横になるほどだ。こういった老人性を疑われる体調不良が来るのも、予想より早かった。人生は折り返し地点を確実に過ぎている。しかし老いの構造については、とりあえず以前にもブログに書いたように、いちおう整理はしてあるから、そんなにうろたえることはない。

これも一種の老いかもしれないが、自分は他人とこうも違うものなのかという感覚と、それでもいいやという感覚が強まっている。みんななんでそんなに世相に合わそうとしているのかということが、まるで分からなくなっている。ネットの新サービスなんてほとんどどうでもいいし、フジテレビのデモも、反原発デモも、遠い別の国で起こっていることのようだ。そのくせ、誰もチェリビダッケなんか聴こうとしない。

ちょっと足を伸ばせばすぐに当事者として参加できるのかもしれない。しかし、新宿で柄谷行人さんがマイクを取ったり、いとうせいこうさんがラップをしたり、デモの参加者が機動隊を殴って逮捕されたりしていることをツイッターで横目で見ていても、おっさんたちすげえなという感想しか浮かばない。何が彼らをそうさせているのか。そんなことを考えながら、近所の酒屋で買ってきた赤ワインを空け、チーズをつまみ、ベランダでぼんやり空を見ながらときどき居眠りしたりしている。本は読んでいない。もう読めないからだ。


耳はまだ聞こえるので、チェリビダッケの悲愴を聴くことができる。これでもう十分。

椎名林檎はロッテ・レーニャへの道のりを歩いているという妄想

あるキーワードで検索したら自分のブログがヒットしたので、過去の記事に久しぶり目を通してみたが、面白くも何ともなく、ただ気恥ずかしくて仕方がない。いわゆるブロガーさんという人たちも、これと同じようないたたまれない気分を味わっているのだろうか。というようなどうでもいい記述自体が、後から読むに値しないものだとは思いつつ。

東京事変の新しいアルバム「大発見」を全曲プレビューして、新しさとは文字通り未知であるということを実感した。未知の世界に踏み込むということは、失敗のリスクが不透明に高く、それが実際に成功しているかどうかというのも、しばらく後になってからでないと正当に評価できないということだ。

いま最大の評価を得るためには、既知の要素の割合を増やせばいい。しかし、それでは長い目で見てスイングが縮こまってしまう。弾が遠くに飛ばなくなってしまうのだ。正直、いまの椎名林檎に老いや衰えのかすかな影を見ないわけではない。しかしそれは、それこそロッテ・レーニャの晩年のような風格あるおばあさんとして歌うための、ひとつの避けられない通過点だとしたら。

通過点、過渡期ほど、いたたまれないものはない。できれば中途半端な真似はしたくないものだ。しかし、そのいたたまれなさを回避していては、のちの収穫は得られない。…しかし、長すぎる下り坂だ。しまいには膝も崩れて倒れこむことになるだろう。それでも、例えば椎名林檎がいま、いつかロッテ・レーニャとなるまでの過渡期を精一杯生きているのだとしたら(これは単なる私の勝手な想像というか想定だが)、自分も自分の気恥ずかしさやいたたまれなさに頭を抱えていてばかりはいられない。

「天罰」から遠く離れて

原発をめぐってリスクだのデマだのが言われているが、そもそも福島に原発を置いたのは、仮にそこで最悪の事態が起こったとしても、首都東京に被害が及ばない場所として選ばれたに決まっているではないか。ソーシャルメディア上の誰かの「信用できる情報」以前に、なぜその問題を迂回して饒舌なおしゃべりを続けていられるのか。放射線リスクの判断材料となるデータだって公開されているというのに。

かの地の深刻さに比べて、東京の「デマ」だの「パニック」だのの、なんと優雅なことよ。よほど想定外のことがあったとしても、東京は壊滅しない。なぜなら、かの地を犠牲にするから。そのこと自体に戦慄すべきだろうと。

また、石原慎太郎の「天罰」発言が大問題とされているが、それとほぼ同じような構図をがっちり保った発言が色々なところから出てきて、「感動した」とか言われているのはどういうことなのか。たぶん、石原慎太郎がまっさきにホンネを言ったので叩かれたが、同じことを言いたい人はたくさんいたのだろう。

この手の発言が「作家」たちから出ているのは、考えて見れば当たり前のことだ。結局、作家という種族は、「男」の「言葉」の「帝国」(by丹生谷貴志)の住人であり、共同体のロマンへの夢なしには生きていけない人たちなのだ。

思想は現実の役に立たないと言っているのではなく、役に立つ思想と役に立たない思想があるということだけだ。目の前の現実にとって役に立たない思想があっても、別によいと思う。しかし、あたかも役に立っている、現代的な思想の顔をして、実はただこの危機を利用して自分の夢を肥やそうとしているだけの動きには、うんざりする。たぶん、この事態を救える思想は他にあるのだろう。

たとえば、かつてカネの亡者と呼ばれ、天皇を呼び捨てにし、尖閣諸島なんかくれてやれ(これに対して石原が「昔なら殺されてます」と言ったのは象徴的)というホリエモンの前には、化けの皮が剥がれたタヌキと言われてもしようがない醜態を晒しているのではないか。

「急ピッチで復旧は進んでいるが、まだ東北道の被災地域は時折道路がガタガタになる。」
堀江貴文のツイッターでの投稿
http://twitter.com/#!/takapon_jp/status/49433323931582464

以下、証拠品をずらずら並べてみると、なぜこうも似ているのか、不思議なばかりだ。みな、「いよいよ来たぞ、この時が」「待ってました!」「これで『かわいそうな若者の不幸な時代』が終わる」と言わんばかりだ。

むしろ石原発言が一番端的で、表現的にもこなれていて、一番マシな気さえする。とはいえ、おれはそんなロマンになんか取り込まれたくない。それとこれとは別だ。そこに救いはない。決して協力したくない。

「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う 」
「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等だ。日本はそんなもんない。我欲だよ。物欲、金銭欲」
石原慎太郎
http://www.daily.co.jp/gossip/article/2011/03/15/0003867235.shtml

「だが、全てを失った日本が得たものは、希望だ。大地震と津波は、私たちの仲間と資源を根こそぎ奪っていった。だが、富に心を奪われていた我々のなかに希望の種を植え付けた。」
村上龍:
危機的状況の中の希望
http://www.timeout.jp/ja/tokyo/feature/2581/

「第二次大戦以降、初めて日常性の断絶を日本人が経験している。三島由紀夫が呪詛した日常性が終ったのである。この悲惨な現実を克服する過程で、新しい復興という時代精神がこの島国に胚胎するかもしれない。」
猪瀬直樹のツイッターでの投稿
http://twitter.com/#!/inosenaoki/status/48070283659186176

「震災前の日本は来るべき衰退に怯える臆病な国だった。人々は国に何も期待せず、世代間の助け合いや地域共同体内の信頼も崩壊し始めていた。しかし、日本人はこの大災害の経験を、新たな信頼によって強固に結ばれた社会を建て直す、そのきっかけにできるかもしれない。」
東浩紀:珍しく日本人であることを誇りに思う
http://blog.livedoor.jp/magnolia1977/archives/52018307.html


ものすごく寒い

東北関東大震災から一週間。昔の文人なら「震災日記」を書き始めていたかもしれないが、そういう気にはなれない。それは私が文人でないからではなく、東京が直接の被災地となっていないからだ。

確かに揺れは大きかったし、停電するところもあるはあるし、放射線が飛んでくるリスクはなくもないが、直接の被災者と比べれば全く微々たるもので、特に書き綴る事象もない。

あるとすれば、この寒さだ。東京でさえこんなに冷え込むのだから、被災地ではどんなに厳しいことだろうと想像するだに暗澹たる思いがする。この「暗澹たる思い」こそが、非被災地である東京を象徴している気がする。

事実、現地で被害をあまり受けず、温かい場所や食料を確保できている人は、直接の被災者故に、暗澹たる思いよりも自分の生活を立て直したり、仲間を助けに行ったりすることに、一種の意欲を燃やしている。空元気もあるかもしれないが、もし自分がその程度の被災者であれば、そう思っただろうと想像する。

(村上龍が「これまで自分たちの繁栄に酔いしれていた我々は、再び希望の種を植えたのだ」と興奮しているのは、それに似た感覚の可能性があるし、猪瀬直樹が「三島由紀夫が呪詛した日常性が終ったのである」というのも同じような意味だろう。しかし心ある人たちは、「退屈」も「日常」も受け入れる覚悟をしつつあったはずだ。)

重要なのは、その「程度」の問題だ。極端に言えば、すでに亡くなった方はもう苦しむことはない。無念だったろうが、いまは何も感じることはない。問題なのは、亡くなった人と意欲を燃やす人の間にいる人の、飢えや寒さや孤独だ。

身内がすっかり亡くなり、自分だけが残って、持病を悪化させ、さらに別の病気を併発させながら、飢えや寒さに苦しみ、孤独に呆然としている人のことを想像するだに、腹が痛くなる。避難中に命を落とす人もいるだろう。いま一番メモしておきたいのは、その人の絶望感への思いである。

金曜日に地震と津波があった夜は、多くの電車が止まって帰れなくなった人が出た。私は都営線の駅まで歩いて混雑する電車で帰ったが、被害があまり明らかになっていなかった土曜日は、震災直後にかかわらず、つかの間の日常があったように思う。

«2010年にやり残したこと、とくに直近の宿題についてのみメモ

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