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思えば遠くへ来たもんだ

 私が話すたび、じっと耳を傾け、少し間をおいてから静かにお話を始めるアンカテさんだったが、「波」の話だけは即座に反応されていた。それをアンカテさんが「波」という現象に強い関心を持たれている証拠と捉えるのは、考えすぎか。人の世に起こることは、ある時点で切断して分析することで分かることも多いが、それによって大事なことを見落とすことも少なくない。流れで物事を見るセンスは非常に重要だと思う。
 詰まらぬ例で恐縮だが、今般の転職の流れは「前職に不満を持っていたら→あるエージェントが引き抜きに来て→好条件に思わず腰を上げたが→結局は外資との交渉にビビって→腰の下ろし先に迷っていたら→運よく声を掛けてくれた人がいた」というものだ。これを「私が転職を決断した動機は云々」として説明しようとしてもまるでムリで「しゃべればしゃべるほどドツボにはまる」(クレイジーケンバンド「12月17日」)。出会いも別れも、一連の流れの帰結として捉えるしかない。

 イノベーションを始めとして、人の世を語る「歴史」の醍醐味は、そういう「流れ」を感じ取るところだけれども、気をつけなければならないのは、「因果応報」の因果関係が、誰にでも分かるような論理で、連続的に起こるわけではないということだ。
 例えば、シェーンベルクが、ベートーベンやブラームスの正統な後継者を自認していたというエピソードには、これこそが歴史であると感銘を受ける一方で、こういう天才というか気が違っている人によって、凡人には非連続的にしか見えない歴史が作られるのだなあと、ため息をつかされる。

ブラームスの弦楽六重奏の楽譜に触発された

シェーンベルクが同じ編成の「浄められた夜」を書き、

その延長線上が、なぜか十二音技法になる。

 おそらく、この帰結はシェーンベルクにとっては必然で疑いのないところなのだが、哀しいかな、ほとんどの人に理解できない。ただ、虚心に聴けば、本当は分かるのだ。ロマンの極地には、すでに崩壊の種が埋め込まれているということが。でもシェーンベルク自身はウィーンの美しい伝統の方にしか意識が行っていないから、自分が来た場所の深刻さに気づいていないし、彼にとっては崩壊ではないのかもしれない。ただ、何かが崩壊したことは確かだ(たぶん、キュビズムにも同じようなプロセスがあると思う)。

 だからビジネススクールの「ケーススタディ」で教えるべきは、イノベーションのロジックは、誰にでも分かるように説明できるものばかりでなく、むしろコツコツやっているうちに、当人達も想定せぬ遠くにいつのまにか来てしまっているようなものが少なくない、ということではないか。

イノベーションと天の恵み

 いしたにさんアンカテさんとご飯を食べました。ありがとうございました。アンカテさんが「フリードマンは、波が引いたあとの世界の話ですからね」とおっしゃったのが勉強になりました。つまり、シュンペーターは“波が引いたあと”以外について、すなわちイノベーションという波の盛り上がりのみならず、波が引くこと(が当然であること)についてもセットで論じているということです。
 ちょうど池田信夫さんが、youtubeでイノベーションに関する講義を流しておられます。もちろん序論だけで判断はできませんが「イノベーション=知恵、情報」というのは、現代においては重要な要素ですが「そもそもイノベーションとは」を考えるには部分的な気がします。その概念を理解するには、シュンペーター(俊平太ではない)による「イノベーションの5類型」について検討したほうが有益なんじゃないかなと思いました。

1.新しい財貨の生産/2.新しい生産方法の導入/3.新しい販売先の開拓/4.新しい仕入先の獲得/5.新しい組織の実現(独占の形成やその打破)

 なぜなら、例えば「新しい販売先の開拓」が、カネにモノを言わせて実現することもあるからです。もちろん、そういう資本投下の意思決定自体が知恵ですが、そのことは従来から分かっていて、あとはカネの問題だけで、そのカネが天から振ってきたからようやくイノベーションが実現するという形もあるわけです。そう考えると、イノベーションにおける資本家・銀行の役割が、ハッキリします。知恵や情報を軽視するわけではありませんが。
 では、具体的にイノベーションは、どういうとき起こるのか。おそらく思いつきのアイデアよりかは、思い込みを廃した根本的な論理的思考の積み重ねの上に、天の恵みや時の運みたいなものが重なって起こるものだと思います。なにしろイノベーションで重要なのは、それが起こるまでしつこく実行したり、必要なだけの資本を投下すること。それをしなければ、当たり前だが、イノベーションは起きない。経済学者ではありませんが、実際のビジネスに関わるものとして、あえて意見を書いてみました。

 いしたにさんには、iPhone を自慢していただきました!

 アンカテさんのお好きな椎名林檎の東京事変をアップ。以前どこかで書いたが、東京事変は国費で1~2億かけて輸出すると大きな国益になると思う。

学研『TRUE VIEW』

『TRUE VIEW』というのは、月刊『TV LIFE』首都圏版(学研)の別冊。

――では、「カンブリア宮殿」を見ているビジネスマンが「今やっておくべきこと」「やらなければいけないこと」は何だと思いますか?

「だから雑誌で、そういうことを言う構造そのものがダメなんですよ。“こう見て欲しい”とか。それって全部甘えなの。メディアを含めて日本の社会全体がその甘えに支えられているんですよ。」(村上龍『TRUE VIEW 01』)

諏訪内さんがブーレーズとベルクで競演している!

独奏は純粋だ

 ひきつづき「不愉快な隣人の存在に耐え」る怠慢ばかりでは時間の無駄シリーズ。こっちはミューズに仕えて没頭しているというのに、わざわざ着飾って、カネを払って連れ立って、目を皿にしてミスタッチを今か今かと待ちわびて、「あーっ! いま間違った!」と快哉を挙げるような他者と関わって何になるのだ。

 と思った男による、ラヴェルのラ・ヴァルスのレコーディング。おかげで、いつでも何度でも楽しめる。アルゲリッチなどは2台ピアノでやってるけど、そこはグールド様が一人で弾き切っている。独奏は、やはり純粋だ。純粋は危険だが、魅力的である。また、ほかのソロや連弾や2台ピアノとの決定的な違いは、こけおどしのグリッサンドを安直に使わないところだ。断然、グールド版がいい。優雅で邪悪なこの曲、モレも大好きだけど、グールドも好きだということは意外。

※追記
「不愉快な隣人の存在」といえば、池田信夫氏の「太田誠一氏の「政治団体事務所」は隣の家だった」には笑いました。

テンプレ変えた

テンプレ変えたら、ようつべ見られなくなったけど、眠いので明日。→見えた。追って有料にしてカスタマイズ・・・と思ったけど、1M問題もあるしどうしようか。

価値観による中間共同体は可能か

 東浩紀氏の「自分が選択できないものを選択して、人間は主体を構成する」論を受け入れたくない論について。東氏と似た論説を、内田樹氏が書いている。

 少子化を食い止めようと思ったら、「人間は共同的にしか生きることができない(だから、不愉快な隣人の存在に耐えよう)」という当たり前の人類学的事実をもう一度国民的規模で再確認するしかないのであるが、それが実現するということは「日本人がみんな大人になる」ということであるから、これまた日本社会はたいへん住みよくなる。
2007年09月11日(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2007/09/11_1700.php

 内田先生の論旨は「個人の原子化」「消費単位の個人化」は国策によって実現し、バブルを下支えしたが、それが少子化をもたらすことになった。少子化は結果なのだから、いまさら問題と言ってもしようがないだろ、というものだと思う。
 それは確かで、自分は理解しているつもりだが、少子化を食い止めるために「不愉快な隣人の存在に耐えよう」「大人になろう」というのが一人歩きすると、住みにくいことになる。隣人の不愉快さが大きければ大きいほど、大人度合いは高くなるのかもしれないが、そんなものにエネルギーを使っている場合ではない。
 やっぱり、不愉快さは小さい方がいいのである。だから、地縁血縁社縁の不愉快さに耐えることだけが、偉いのではない。「俺は嫌です」と言って、別の価値観の(中間?)共同体を作りたがる人がいるのは、普通に、当たり前なことなのではないか。
 もっとも、理念による共同体の、理念ばかりが前面に出ると、とんでもない共同体になることが多いし、それに比べて「不愉快な隣人の存在に耐え」る共同体は、居心地が悪いが、とりあえずファシズムにはならないと思うが。程度問題だろうか。

 結論的には、地縁血縁共同体からも、理念共同体からも、一定の距離を置いて逃げて、宙吊り状態に耐えるということなのでしょうが。それがイヤミなら、それぞれに知られないような二重生活(デュアルライフ。ただし二地域居住じゃないやつ)とかな。

They Are There!

アメリカ南北戦争の軍歌の曲調で反戦歌を作ったチャールズ・アイヴス。自作自演の音声がようつべにうpされており。
かつてエルヴィス・コステロ氏のiTMSのトップリストに挙がっていた。(さすがに自作自演の音声でなく、現代的なオーケストラによるものだと思うが。)

※追記:やはりサンフランシスコ交響楽団。
http://blog.livedoor.jp/utatsu/archives/7223446.html
iTMSへのリンク
http://phobos.apple.com/WebObjects/MZStore.woa/wa/viewAlbum?i=2409642&id=2409704&s=143441

Most wars are made by small, stupid,
(戦争はいつも、少数の、愚かで、)
selfish bossing groups,
(偉そうなヤツラが起こすものだ、)
While the People have no say,
(普通の人々が何も言えないうちに。)

 アニメ映画の戦闘シーンの大げさでヒロイックな作りにいつもムカムカしていた俺は、10年も前、RPGの音楽を頼まれたとき、反戦の意思を込めて、戦闘シーンにこの「They Are There!」をアレンジしたループを使った。戦闘反対。

なんであんな音楽になっちゃったの?

武満徹と、娘の真樹の対話。

徹:僕がなぜ音楽をやるようになったかというと、終戦の2~3週間前に、ある兵隊が「今日お前たちに面白いものを聞かせてやる」と、手回しの蓄音機を聞かせてくれたんだ。シャンソン、すばらしかったんだよね。その頃は、そういうものは禁止されていた。敵性音楽は聞いちゃいけないって。
それが「パルレ・モア・ダムール」という歌だったと思う。すごいきれいな、ゾーッとするぐらい。みんな感動したんだけど、僕は特別感動した。そのとき僕は、もし戦争が終わったら、僕は音楽家になるんだと決めたんだ。
真樹:そういう音楽、書かなかったじゃない(笑い)
徹:そうなんだよ!それが不思議なんだよね(笑い)
真樹:なんであんな音楽になっちゃったの?
徹:僕が一生懸命にやると、ああなっちゃうんだね…。でも僕は、あのシャンソンと同じような精神の音楽を書いているつもりなんだよ。

http://jp.youtube.com/watch?v=IbD3BxoxOk4

この動画は、いまはNHKからの申し立てで削除。もったいないなあNHK。受信料を支払うに値する放送局だってアピールする絶好の機会なのに。それから真樹さん、俺は徹さんの曲から「あのシャンソンと同じような精神の音楽」を聴いていましたよ。

「選択できないもの」を裏切ること

 何日か家を空けて帰ってきてみたら、鍵が開いてた(勘違いでなければ)。何度も確認して家を出たのに。新居になって初めてだけど、前の家で空き巣が入ったから(犯人は捕まった)。あー気持ち悪い。

 毎日.jpが「秋葉原事件と時代の感性」と題した鼎談を掲載。地縁血縁について東浩紀氏が言及。ちなみに、22日のモレのエントリーは、この鼎談を読んで書いたものではない。

 今の若者は、地縁も血縁も意識せず、「自分が選べないもの」をあきらめて受容するという経験が少ない。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080820dde018040052000c.html

 自分が選択できないものを選択して、人間は主体を構成する。選択できないものとは、普通は地縁や血縁ですね。本当は、この場所でこの時代にこの親の子に生まれたくなかった。でもそれを仕方がないと、いわばあきらめて主体は安定する。あきらめずには大人になれないのに、現代社会ではそのあきらめの回路がうまく働いていない。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080821dde018040068000c.html

 東氏は(地縁血縁を)「あきらめずには大人になれないのに」と言っているが、そういう意味では、モレは大人にはなっていない。それを諦めて酷いことになっている人たちを、昨日福島県のホテルの宴会場で見かけた。あー、あれが大人か…。お断りだなあ。

 ホテルの飯があまりにまずい(というか、おざなりで、他人に美味しく食べさせようという姿勢が感じられない)ので、激怒し、急遽30分ほど電車に揺られて、地のものを使ったイタリアンに行く。生き返った。地縁と言っても、ただ地元の親戚のスーパーから仕入れてくるんじゃなくて、トマトは会津、根菜類はもう少し高地、塩は温泉から取り出した山塩と、念入りに選択すれば、あんなにも素晴らしいものができるのに。モレはやっぱり「選択できないもの」を裏切っても、選択する方を支持するし、そんなもんで大人になれないとか言われたくない。

※追記:イタリアンの店のホームページ発見。一流の修行をしてきたようだし、なにしろ気合が違う。

サティ(眼鏡なしで)

いしたにさんから、

「Web 1.2」だけだとさすがにGoogle様も拾ってくれないので、後ろになにかつけませんか?

と助言をいただいた。ありがとうございます。念のため「サティ 眼鏡」で検索したら、

金沢タウン メガネスーパー アージュ御経塚サティ

がトップに来た。エリック・サティの「左と右に見えるもの(眼鏡なしで)」というピアノ曲がトップと予想してたから、ちょっと驚いた。店名にサティって付ける時点で、ひねくれエリックのことは思いださなかったのかね。僕なら却下だね。

官僚的なソナチネ

バーンスタインとフランス人たち

 今日は偶然が重なって、前職でお世話になった人たちと四ツ谷で会った。3カ月前には取材する人/される人/コーディネーターとして出逢い、仕事をした後に、それぞれ相談もなく退職し、いまや新しい仕事に就いている。でも、そのこと自体には皆あまり驚いていなくて、次は何をやろうかと話し合った。単にご縁があったから「仲間」として集まったのではなく、この人たちに燃料を投下すれば面白い反応が起きそうだという、ある種の損得勘定(私欲でもあり無私の欲求でもある)が前面に出た話し合いというのは、とてもスリリングだ。このようなコミュニケーションの基盤にあるのは、地縁・血縁・学縁・社縁のような根拠なき安心感ではなく、互いが互いの希望を思いもよらない形で充足してくれるのではないかという期待感、すなわち信頼感である。(無論、地縁・血縁・学縁・社縁の方が根拠が強いという意見もあろうが、実際には偶然であり根拠は弱いと思う。)

 バーンスタインとフランス人オーケストラによる幸せな信頼関係の例(ぜひ美しい2楽章も)。

いつの間にか夏は…

 あんまり一気にエントリーするのは、読者を離反させるだけだろうな。と思いつつ、夏が終わって手遅れになる前に。これも一種の追悼。

曲、ピアノは中川俊郎。

武満徹のレクイエム

 弔辞つながりで。家で飯を食うことがなかったくらい忙しかった昨年、一昨年、夜中に駅前の「なか卯」でうどんを食っていると、向いに立花さんが座っていることがよくあった。

 武満徹は、いつも新しい作曲を始めるときは、必ず「マタイ受難曲」を聴いてから…声を詰まらせる立花隆。

武満徹が残したものは(リクエストによる埋め込み無効)
http://jp.youtube.com/watch?v=bGZDQC15ckk

 立花隆が『文学界』に連載していた「武満徹・音楽創造の旅」が単行本化されないのは、どういうことだろう?

 youtube ばっかりだけど、備忘録として「レクイエム」(部分)

 そして「Secret Love」

ひよりちゃん

Monty Python - Always Look on the Bright Side of Life

「Always…」歌詞の和訳
http://blogs.yahoo.co.jp/hotel_zihuatanejo/6746209.html

元気出せよ、ブライアン。こう言うのを知っているだろ。
人生では悪いこともある。
本当に嫌な気分にさせるようなことがね。
悪態をついたりするようなこともある。
人生の軟骨を噛んでいる時には、
文句なんか言ってないで、口笛でも吹いてみろよ。
そうすれば物事が良い方にかわるかもしれないぜ。

人生、明るい面だけ見ていようぜ、
人生イイことあるさ、っていつも思っていようぜ。

人生が腐っているように思えたら
忘れちまいな。
笑い飛ばして、にっこり笑って、踊って、歌ってしまうことさ。

落ち込んだ時でも、
馬鹿げたことはやめとこうよ。
唇をすぼめて、口笛吹こうぜ。そう、その調子。

人生、明るい面だけ見ていようぜ。

人生が馬鹿らしくなって、
死を間近にしたら、
幕が閉まるその時に、お辞儀をしなきゃだめだぞ。
自分の罪など忘れ、観客に向かってにっこり笑おう。
楽しむんだよ、最後のチャンスさ。

死ぬ時にもイイこと考えていたいね、
死ぬ間際、最後の一呼吸の直前にだって。

眺めてみたら
人生はどうしようも無いほどクソさ。
人生はお笑い、死は冗談、それこそ真実。
ショーみたいなものだってわかるだろう。
彼奴等を笑わせておきな、
最後の一笑はお前に向けられているってことは覚えておこう。

人生、明るい面だけ見ていようぜ。

俺も、磔になったときでさえ、口笛を吹いていたいものだ。

弔辞といえばジョン・クリーズ

 いまさら言うまでもないけど、弔辞といえばジョン・クリーズ。グレアム・チャップマンの葬儀での爆笑。2年前にも引用したけど、消しちゃったので。引用元に厚く感謝します。

Graham Chapman's funeral

弔辞の和訳(by 追悼の作法)
http://www.yamdas.org/bmm/music/memorial.html

 グレアム・チャップマン、「オウムスケッチ」の共作者はもういません。彼は生きるのを止め、命を失い、安らかに眠り、お陀仏で、ポックリ逝き、くたばり、死んじまい、息を引き取り、天国のお笑い番組の主の元にいってしまいました。我々は皆、深い悲しみの中にいます。これほどの才能、可能性、優しさを備えた人物が、これほど類稀な知性を持った人物が、彼が成し得た多くのことをやり遂げる前に、彼自身が人生を充分楽しむことなく、わずか48歳の若さでこの世を去ったのですから。

 いや、私はこう言うべきでしょう。「くだらない。あの寄生虫のろくでなしを厄介払いできてよかった! 奴が死んでせいせいする」私がこのように言うのには理由があります。これを言わなかったら、もし私が彼に代わって皆さんをぎょっとさせる機会を逃したら、彼は絶対に私を許さないだろうからです。上品とはいえませんが、すべて彼のためです。最期の夜、彼が私にささやいた言葉を書き留めています。「いいか、クリーズ。お前はテレビで初めて "shit" と言ったとても尊敬すべき男なんだ。もし式を本当に俺のためにしたいのなら、まず手始めに、お前にイギリスの追悼式で初めて "Fuck!" と言う男になってほしいんだ」

 タモリさんは30年くらい前、モンティの日本語吹き替え版の後に、ハナモゲラ語とかをやってたから、この弔辞の存在は知っていると思う。

「ブラック会社」まとめ読んだ

 ろじゃあさんのブログで『ブラック会社に勤めてるんだが、俺はもう限界かもしれない』の本の存在を知り、午後10時に本屋に飛んで、はじめて2ちゃんのスレだということを知って(電車男のときはリアルタイムで見てたけど、去年から今年は元旦くらいしか休みがなかったから見てなかった)、慌てて帰ってきて、いま全部読んだところ。やっぱり「人間関係」なんだなあー、問題は。それだけ、現代の職場共同体が崩壊しているってことなのか。モレはそれを、密かに歓迎していたんだけど、こういうの読まされると、修正が必要かなとも思う。まあ、過渡期なのかもしれないし、人間の集まりなんだから、あまり変わらないのかもしれない。たぶん、組織の目的や構成員なんかによって、タイプは変わるんだろうね。なので、批評はやめて肯定します。面白かったです。

 でもやっぱり気になるところはある。「仲間」を強調するところとか。「木村」くんの主張は間違っているけど、では、「仲間」存続が目的かというと、そうではない。その辺の戦略を、社長とともに話し合う人はいなさそう。美談に水を差すと、ここが物足りない。あと「上下関係」を強調するところ。協調性は不可欠なのは間違いないけど『経営の未来』で示されているような、年齢的な上下はもちろん、職位的な上下ですら絶対ではないというマネジメントがあって、そういう組織が人間的な職場として称揚されるべきような気もする。もちろん、「ブラック会社」の設定ではムリだ。でも、職場というものは、どこでもこういうものだという諦めと、固定的な思い込みを擁護する物語として「ブラック会社」が利用されるのであれば、私はそれに反対する。

世紀末

 いちおう世紀末っては、歴史学の上では、前世紀の終わりばかりでなく、次世紀の10年くらいまでを指したと思うけど。とすると、今年あたりから世紀末中の世紀末に突入するということになる。どおりで状況はグダグダなわけですよ。いわゆる「世紀末」的。クダラナイもの(もちろん可能性も認めるけど)が我が物顔で闊歩しているような気がする。もう閉じこもりたいね。ていうか、すでに閉じこもっている人たち、たくさんいるんだっけ。ある意味、正しいと思うよ。
 古典というのは、こういう世紀末現象に対する解毒剤として有効なのではないかと思う。ラヴェル「ハイドンの名前によるメヌエット」。作曲は1909年(ハイドンの没後100年)。だよなあ、モーリス。

[書評] 読後、本は壁に叩きつけるべし

 ハメルの『経営の未来』にパラパラ目を通す。やっぱりアメリカのビジネススクールの先生が書いたものを、日本経済新聞出版社が出す翻訳で読むときに感じる違和感には、なかなか慣れることができない。だいたい、たとえ話が多くて回りくどすぎるよ、アメリカのビジ本は。まあ、ケーススタディという「後付け学習」が主要な世界だからな。
 横道に寄れるけど、書評ブログでアフィリエイトねらいしている人たちは、ロクに本を読んでないね。書いてることがロクでもないというのもあるけど、こんな変な文章、読めないよ普通。そんなことまでして、そんなにカネが欲しいのか。まあ、英語のままなら、かえって分かりやすいのかも。
 それで、この本自体のイライラの理由を思いついて、もう一度パラパラしていると、やっぱりその答えは本文にあった。すなわち「教訓2 経験豊富な管理職は、最高の経営管理イノベーターにはならないだろう」ということ。言い換えれば、ビジネススクールの本を片っ端から読んで、フムフムナルホドとか言って、そういう本が本棚やら机の上やらに積んであるような万年管理職はダメなんだよ、そもそも。そういえばO君が昔『漱石研究』(という雑誌)を手にして叫んでたよ。「おまえ自身が夏目漱石をやらずにどうするんだ!研究して何になる」と。
 羨ましいグーグルの例を読んでさえ「うえー、俺は絶対にこんなやつらの真似はしないし、MBAのジジイが書いた本の言うことなんて信じるもんか!」と、壁に投げつけるようなヤツの方が、ずっと見込みがあるというものだ。本には、そういう使い方が十分ありうる。

 もちろん、周到な本歌取りで、とんでもないイノベーションを起こす人もいるけどね。今日、通勤途中でiPodを誤操作したら、いきなり「ペトルーシュカ」が大音量で流れた。身体中の酸素濃度が一気に上がる感じがした。

 チャイコフスキー→ストラヴィンスキー(好きーつながり)
 白鳥の湖→火の鳥(鳥つながり)
 くるみ割り人形→ペトルーシュカ(人形つながり)
 眠りの森の美女→春の祭典(美女つながり)

 しかしスト氏は、どんなつもりで作曲したんだろうか!ほとんど赤塚不二夫だ。ストラヴィンスキーを聴いて、イノベーションに対する期待と憧れを大きくしすぎるのも、考えものかもな。

マンガな人たちの幸せな生活

 雑誌8頁分のインタビューを頼んだら、できない理由を電話で延々1時間にわたって言い訳する高畑勲と、隣で聞いていたが俺は言いたいことが山ほどあるから16頁寄こせという宮崎駿。まるでマンガだ。でも、そんなマンガな人たちがいなければ、あんなマンガはできない。(『仕事道楽―スタジオジブリの現場』)面白くて一気に読んだ。俺も理想は公私混同派だね。本題とは関係ないけど、いくつか引用されていた高畑さんの文章が、どれもすごくいい文章だったのが印象に残った。ぜひ書店に行って読んでみてください。

〈重要なのは、言いたいことを言って、それがそのまま受けとられること。不信感をもってきかれると、違って伝わってしまう。そのまま受けとめてもらうための信頼関係は必要です〉(鈴木俊夫)

 やはり、コミュニケーションにおいて重要なのは、その内容や表現方法ではなく、基盤となる信頼関係。それが出来ていれば、ときどき暴投しても拾ってもらえるものだ。

フードプロセッサー

この間、バラ肉を買ってきて餃子を作った。肉を細かくするのに、包丁では面倒だったので、途中から機械でやろうとしたら、それがジューサーミキサーであるのに気づかず、あっという間に煙を吐いてモーターが焼き切れてしまった。

悔しいので、カカクコムで人気のテスコム「TK430」を注文(amazonが最安)。併せて「フードプロセッサーで絶対作りたくなるレシピ」を注文。年をとって負けず嫌いになったようだ。フードプロセッサーって、ワードプロセッサーと一字違いだ。作ったらまたレポートする。なんていうのがアフィリエイト?

[書評] やっぱり「普通」な社則じゃ元気が出ないぞ!

 日経BPオンラインの書評で厳しい突っ込みを受けていた、柳澤大輔氏の『この「社則」、効果あり。』。実際に手に取ってみたが、感想は評者とまったく違ったね。この評のせいで本の売上げが伸びないのであれば、なんか気の毒な話だ(コメント欄にも「買わない」とか書かれているし)。

 評者は「どうして、こんなにまで「普通に仕事をする」ことを嫌うのか。」というけど、その「普通」が指しているのは、城繁幸氏が『3年で辞めた若者はどこへ行ったか―アウトサイダーの時代』(ちくま新書)で「昭和的価値観」と呼んだ思い込みと同じような気がする。具体的には「近代工業社会のシステム化された職場」こそ理想とする考え方。この画一的な価値観から解放されないと、働く人が「幸せ」になれないというメッセージが、本書には込められていると思う。

 評者は「仕事じたいの魅力が乏しいから、変わったルールをいっぱいにして気分を高揚させようとしているのでは?」と意地悪くいうけど、そんなことはないと思う。「個性」的な社則と言ったって、よく見れば、その会社の事業や戦略自体に個性があって、その実行に必要なルールになっている。「ペット忌引」とか「デート手当」「バーゲン半休」なんかはそう。それから「サイコロ給」や「ビジネスネーム」は、事業内容とは別だけど、会社のカルチャーだとかマネジメントスタイルの個性が、十分に会社の力と言えるという点で『経営の未来』(日本経済新聞社)でハメルが書いたことに通じる。「コブシ給」なんかは、組織のコミュニケーションを活性化させる施策そのものだ。

 結局、決まったことができれば誰がやってもよい職場では、一定の誠実さは求められるにしても「地味に淡々と」(日経評者)やっていればいいし、社則にも「余計なことしたらクビだ」と書いておけば済む話。もちろん「多様化」の世の中では、そんな価値観も許容されるけど、本書は、会社と人が元気になるには「普通」(=資本主義社会の奴隷)から出た方がいいんじゃない?なんで「普通」に逃げ込むの?と言っている気がする。まあ『日経ビジネス』自体が資本家側にいるわけだけど。

(それから「参加」「参画」という要素もあるけど、それは次回で。)

 本書は、読む人の「働くことに対するパラダイム」を測定するには、適しているんじゃないかな。個人的には、上記2書とともに管理職試験の課題図書にしたらいいと思う。

アーバンさんご臨終

アーバンさんについては、いろいろお世話になったが、申し訳ないと思いつつ6月の終わりから「アーバンコーポレイション 倒産」で検索させてもらっていた。第一号の記事は、7月7日に現れた。だから昨日の倒産は、業界の人たちにとっては「青天の霹靂」ではないのだと思う。

不動産ここだけの話
http://takesita2008.blog45.fc2.com/blog-entry-302.html

広島のヤクザつながりの噂もあったが、一方で、三井や三菱が中堅層の不動産会社を潰して、秋あたりまでに安く買い叩くという「噂」もあった。大手のバックにも何かいるだろう。叩きやすいところばかり叩かれるのは、ちょっと不満がある。

Web 1.2

「Web 0.2」で検索してみたら、結構ヒットしたので、名前を変えました。昨日検索したときは、そんなになかったのにw

今日4本目

いしたにさん、今日(ゆうべ)はどうも。トラックバックってのは、これでいいんですかい?

日本のダダ

明日はとても書けそうにないので、今日3件目。「思い出はいいよね。なにしろ安上がりだ」と言った奥勇作君は、今ごろどうしているだろうか。あのときは「そんな後ろ向きな話はつまらない」と言って悪かった。私が間違っていたとお詫びして訂正したい。

1990年ころ、和泉多摩川に住んでいたとき、近所の素晴らしい本屋「りろ書房」で『日本のダダ』を注文した。火曜日の深夜、午後11時頃だった。翌水曜日の午後9時ごろ、部屋の電話が鳴った。「もしもし。日本のダダ、入りました」。その声は、いまでも耳の底から離れない。その本に載っていた詩から。

「私に就いて」島田清次郎

私は何処に行くか

瓦斯が不足です

風船の尾に私の名を書いた短冊をむすび

私を昇天さしていただきませう。

私の生活は空の中に、

私の栄誉は炸裂すること

私は私の名と共に

この世に何も残したくない

島田さん、残っちゃってますよ!

ノルマ

いしたにさん(または石谷君、もしくは石谷)から、1日2件のエントリーを半年続けるよう言われたので、初日は2件書いた。しかし、そんなに続かないと思う。

ブログをめぐる現状を見ると、中学生ころに夢想していたことを思い出す。すなわち「書かれ、開かれてはいるが、読まれない文章」ということ。そういう文章を書く場があればいいなと思ったものだ。おそらく「書く」ということと「読まれる」ことの間に、何らかの断絶があると考えたのだろう。それが実現している現代の状況は、人類史上初めてのことと言っていいはずだ。

もちろん「読まれない」というのは思い込みで、知らない誰かが痕跡を残さずに読んでいるかもしれない。油断は禁物だ。

「人はひとりでは生きていけない。いつもだれかに見張られているのだ」(ドミトリ・ショスタコーヴィチ)

出直し

2年前に立ち上げたブログが更新されていないままだったので、名前を変えて出直すことにする。といっても更新の意欲が湧いたわけではなく、むしろ「やっぱり駄目だったよね」ということを確認するために、いちどよりを戻してみるということのような気がする。

ノリちゃんが2001年に提示したテーゼ、「人は、自分の知ってることを、他人(ひと)に教えたいんですよ。自分からカネを払ってでもね」という洞察に比べれば、いまのCGMだのなどママゴトもいいところだ。Web1.0以前の話で、せいぜい0.2程度に過ぎない――などと啖呵を切って自らの世界の狭さを露呈しているブロガーさんたちの真似をせぬよう、謙虚にやることにしたい。世界は広く、歴史は永い。

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