期待外れについて
この間、「何の終わりなのか」と書いていた、まさにその頃、恩師があの世に召されようとしていたということは、後から知った。「もう、すでに何かが終わっているのか」という感覚は合っていたようだ。恩師と卒業後に最初に会ったときに「君は、本当に期待外れな男だね」と、絞り出すように言われたことを思い出す。またか。子どものころから何度も言われていたことだ。最近は会社を変わったときに、面倒を見てくれた役員から、一字一句同じことを言われた。たぶん、いまの勤め先の人もそう思っているだろう。
期待外れという不満は、事前期待に対する事後充足の度合いが低いということだから、こちらからすれば、勝手な事前期待の方がおかしいのだと思う。・・・と言っても、正直、こちらの責任も認めざるをえないところもある。期待はよく分かっている。しかし、残念ながら、それには添えない。私は、あなたが思っているような私ではない。そんな当たり前な、言わずもがなのことを、なぜかいつも相手にぶつけたがっている。これは、いったいどういうことなのだろうか?
自信も信用も、反復と蓄積の中から生まれる。なぜ、それをそこまでして避けたがるのか。たぶん無意識なのだと思う。「お前、最近、自信つけてないか」「けっこう信用されているよな」、そんな囁きに耐えられず、自信も信用もぶち壊したところに追い立てられる。そして、周囲が嘆き、失望し、離散し、ひとりになって誰も気に留めなくなったとき、ふと頭に浮かぶ。「これをやったら面白いかもな」と。
それは、野望というより、一時的ないたずら心みたいなものだ。そういうノーマークなときが、いちばん面白いことが浮かぶし、面白いことができる。それが自分の本性なのではないか。・・・でも本当は、恩師に「君、がんばっているね」と言われたかったとは思う。そろそろ周囲も呆れ、離反し始めたころだ。何となく、面白い考えのようなものが、遠くの空に見えているような気がする。それをつかまえたところで、恩師への恩返しにはならないだろうが。でも、恩師の教えは忘れたことはない。いつか、ほめられそうなことをしてみたいものだ。
いまさら、サンボマスターでも聴いて、気を紛らわす。俺のことなど分かりゃしない。そんな絶望と怒りにひとしきり堪えていれば、大げさに言えば「世界と和解する」ための案外いい考えを得られるものだ、という楽観みたいなものなのだろうか。
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