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宮下誠追悼2

勤め帰りに都心の本屋に行ったが、宮下誠先生の『カラヤンがクラシックを殺した』は店頭になかった。もう絶版になってしまったのだろうか、出版社で在庫の山になっていないだろうか・・・そう思ったら棚の前で噴き出してしまった。誰ともない迷惑そうな顔が浮かんだ。

自宅に帰って書棚から『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』を取り出す。先生のこの本でも思うのだが、美術史というのは学問かどうかも分からない。(というか、江藤淳が言うように、「重苦しいものにローラーをかけて」学問にしたところで何の意味もないのだ。)博覧強記による過剰な饒舌しか、美術史ではありえない。

例えば、ピカソの「アヴィニョン街の女たち」の青いカーテンに、エル・グレコのオマージュを読み取ることは、仮に美術史上の定説になっているとしても、誰かが最初にそう過剰に読んだのである。本当にそうなのかどうかも、本人すら分からないというのに。

その意味で、この本も『カラヤン・・・』同様、過剰な書物だ。物理的な書物のよさは、コメントが書き込めないところだ。もちろんネットのオープン性がよいものを産むことは確かだが、こういう突っ込みどころ満載なまま無防備に仁王立ちしているテキストは、書籍の閉鎖性のままに置く方がよい。

そして、ときどき開いて、これを書ききって倒れたひとりの人間の悪戦苦闘を想うだけでいいのだ。過剰な記号の集積がモノに封じ込まれて、リビングの棚の隅にある。何もなかったかのように澄ました顔をしているが(とはいっても新書で360ページ以上って書きすぎだよ)、あまりの異常事態に笑いがこみ上げてくる。

宮下先生の好きだったクレンペラーの指揮で、シェーンベルク「浄められた夜」より。

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宮下誠追悼

このブログにもっとも多くのコメントを残されているのは、國學院大學哲学科の宮下誠教授だ。その先生が、今年の5月に急逝していたことを今日知った。美学美術史学会で京都に出張中のホテルで、心不全で亡くなったということだ。ご冥福をお祈りしたい。

突然のことであり、ブログで紹介した『カラヤンがクラシックを殺した』は、購入何冊目か忘れたがすべて人にあげてしまっており、詳しくは本に沿ってまた追って書くとして、今日時点の考えを備忘録代わりに書くとすれば。先生は、2ちゃんねるなどネット上に書かれている自著への評価をくまなく検索して読み、可能な場合は返事をしていた形跡があった。その過程でこのブログにも立ち寄られたようだった。

『カラヤン・・・』が出たときは、特に酷評が多かった。でも私は、この本を通読した時、このような過剰な言説が物理的に書籍という形を取り得たこと、そして資本主義社会の中で商品として流通していることへの驚きを禁じえなかった。一方で、このような過剰な記号の集積こそ、書籍として存在を許されるべきだと思った。酷評は、資本主義社会からの拒否反応の一種。状況は深刻だったが、そんなことは先生も分かって書いていたはずなので、悲喜劇的でもあった。BGMを変えてみれば、スラップスティックになるような状況だった。

とにかく分かりやすい、シンプル、理路整然、破綻なしで流通しやすい言説ばかりが肯定されて、そこから外れたものは否定される。それは先生のカラヤン批判にそのまま通じる。なのに、なぜあんな酷評が書かれるのか分からなかった。読解力不足だろうと。確かに先生のカラヤン評は新しいものではなく、その本質は同じ新書から出ている許光俊氏の著書を読んだ方が、ずっと早く飲み込み消化できることは間違いがない。もっといえば、許氏は宮下先生同様のカラヤン批判を踏まえた上で、さらに先の考察までしているともいえる。

ただ、例えていえばミスタッチはあるが息を呑むド迫力の演奏のような、息継ぎせずに「クライスレリアーナ」を弾ききるような、過剰で危なっかしい試みを、宮下先生はしないではいられなかった。詳しい死因は知らないが、自らの寿命を縮めるような生き方であったと思う。まだ47歳。早すぎる死だ。いちどメールしてお酒でもおごって貰おうと思っていたのに。一度もお会いできなかったけれど。

お会いできたら、先生に説教をしようと思っていた。先生、批判というのは難しいですよ。それに、分からないやつには分からない。批判は半分くらいにして、クレンペラーとケーゲルの擁護に、もう少しページを割くべきでした。特に、生前に評価されないまま拳銃自殺したケーゲルについて、その魅力をもっと肯定すべきでした。ただ、苦悩を肯定する、なんて残酷なことはできにくかったかもしれませんが。

少なくとも、私が最初のブログで書いたように、ケーゲルがドレスデンフィルと演奏したビゼー「アルルの女」第一組曲のアダージェットが、なぜあんなに美しくて恐ろしい音楽だということについて、先生なら語れたはずだ。なぜそれを避けたのか。いつかもっと書いて欲しい・・・というような説教を準備していたのだが、申し上げる機会を失ってしまった。私のような門外漢のたわごとにも、先生はきっと耳を傾け、熱心に持論をお話くださっただろうと思う。そんな実存を確かに感じた。

YouTubeにケーゲルの演奏がほとんどなかったので、Tumblr経由で「アダージェット」を。

「ゆで太郎」と「ありあまる富」

最近、ランチに立ち食いそばを食べるようになった。安いというだけでなく美味しいからで、それがチェーン店の「ゆで太郎」だから自分でもちょっと驚く。常々さまざまなチェーン店(の安直さと、それを容認する客)をバカにしているというのに。正直言って、そこらのそば専門店よりもずっと美味しいと思う。立ち食い界で有名な四谷の「政吉そば」と、自分の中ではいい勝負になりつつある。

そこで同じチェーンの別の店も行ってみたのだが、いまのところ千代田区の○○にある「ゆで太郎」が一番美味しいというのが結論だ。何が違うのか。まず、麺がいい。粉の香りがして、噛むと甘みが出てくる。繁盛していて回転がいいから、麺や粉の鮮度がいいのかもしれない。それから、堅めなゆで加減も好みだ。そのほか、汁の濃さや、七味ならぬ一味唐辛子の香り、「温玉」という名前で注文する半熟卵の味とか、いろいろ良いところがある。

と、チェーンの立ち食いそば屋ごときに熱を入れ過ぎなような気もするが、この「店ごとに粉から製麺する」という奇特なそば屋には、いま肩入れしないわけにはいかない。で、ここで思い出したのが椎名林檎の「旬」という歌で、この歌は本当にいいなあと思うんだけれど、このところ考えることの多い“人の衰え”について、「♪誰もがわたしを化石にしても/貴方に生かして貰いたい」という歌い出しを含めて、なるほど「旬」ってそういう言葉だよねと納得する感じがする。

たぶん、これから10月、11月には新そばの季節になるから「旬」を思い出しただけだと思うけど、ただ、椎名林檎の歌が、才能豊かで裕福でセンスのある風な人たちにだけ向けられているのではなく、質素な店の奥で人知れず誠実な仕事をしている職人さんたちへも向けられているんだろうなということは考える。それは、実は「ありあまる富」という歌の歌詞にダイレクトに表れているのかも。

必ずしも、彼らの耳や手に届いてはいないかもしれないが。一見無縁なような2つを結びつけながら味わっている自分がいるということは事実である。

西浅草にて

連休中に西浅草に行く。新御徒町の駅を降り、地上に出て路地を曲がったところで、不意に一陣の風が頸の後ろを通り過ぎて、路地の奥に抜けていった。なぜか焼け付くような熱風に思えた。

「ああ、ここは東京大空襲で被害がひどかったところなんだな」

と咄嗟に思った。単に、下町なのに路地がいやに整然としているところや、視界に入った「元浅草」や「三筋」といった住所表示から連想したのかもしれないし、何か別の感覚でそう感じたのかは分からない。

300機以上のB29による卑怯な攻撃で100万発が落とされたというナパーム弾は、ゼラチン化したガソリンで造られていた。それは当時の日本家屋の弱点を踏まえて作られたものだった。トタン屋根を突き破り、襖や障子や畳に飛び散った。さらに超低空飛行による機銃掃射も。一夜にして10万人もの一般市民が焼け死んだ。

こんな無差別大量虐殺は国際法違反に決まっているが、しかし戦後の人びとは、天皇も責めず、鬼畜米英も責めず(もちろん責めたと思うが、それにとらわれすぎることなく)、あっさりと新しい世の中を作ろうとした。この鈍感さが、平和な世の中を実現するために必要だったのだと思う。そういう、いいところは見習いたい。しかし、事実があまりにも忘れ去られすぎているのはしのびない。

シャネル&ストラヴィンスキー

今年は当たり年なのか、『ココ・シャネル』と『ココ・アヴァン・シャネル』という2つのシャネル映画のポスターを見かけたが、来年の正月にはもう一本公開されるようだ。

その名も『シャネル&ストラヴィンスキー』。ココ・シャネルとイーゴル・ストラヴィンスキーの恋愛物らしい。フィクションだろうけど、少しそそられるものがある。実は今年のカンヌ映画祭のクロージング作品でもあって、映画に詳しい人ならとっくに注目していたかもしれない。オリジナルの予告編には「春の祭典」の初演(1913年)の大混乱がちらっと出ている。

・オリジナルの予告編

http://www.youtube.com/watch?v=As64A0vo7MM

・日本版の予告編

で、ストラヴィンスキーといえば「3大バレエ」ばかりが注目されて、それ以降の作品が不当に軽視されているが、その点、岡田暁夫の『西洋音楽史』(中公新書)は抜かりない。「オリジナリティ神話の否定――新古典主義時代のストラヴィンスキー」という項目を立て、18世紀初頭の作曲家ペルゴレージらの作品を下敷きにした「プルチネルラ」(1920年)を題材に、この時代の作風の本質を捉えている。

「新古典主義時代の彼は、『パクリ』と『継ぎ接ぎ』を誰はばかることなく作曲の中心原理として創作の前面に押し出してきた」(p210)

新古典主義時代の作品としては「ミューズを率いるアポロ」(1928年)という作品は、過小評価されていると思う。無茶苦茶な折衷なんだけど、実に緻密に優雅に構成されている。「春の祭典」だけでなく、これも疑いなく20世紀の音楽だ。まずは『のだめカンタービレ』で取り上げてもらって(笑い)、それから岡田氏の本に取り上げてもらったら・・・。

鉄道音楽今昔

アルトゥール・オネゲル「パシフィック231」(1923年)

JR九州「浪漫鉄道」(1987年ころか)

二ノ宮和子は俺か#20

しようがないので、また店に行くと、すでに「のだめカンタービレ20巻」はカウンターの上に置かれていた。読みながら愕然とする。21巻のラヴェルのコンチェルトには、20巻でキッツイ布石が敷かれているではないか。これを逆に読ませるのは、ちょっと酷ではないか。知っていてのことか?

いま、みなさんに伝えたいのは、漫画は巻数の小さい方から大きい方に向かって、順番に読むべきだということだ。頼むから順番に読ませてくれ。

それと、これは偶然だが、コンクールのヴァイオリン部門で三木が弾いた曲が、ベルクの「ある少女の思い出に」だったことにも驚いた。その曲なら、もうだいぶ前に、俺が日本人女性ソリストの例(というか、この曲を得意としていることの不思議さ)を書いたではないか。つーか、二ノ宮和子は俺か。でなければ誰が助言をしているのか。

ラヴェルを耳コピーしてしまう、のだめとの連想で、山中千尋トリオの“Living Without Friday”を。

のだめゼルキン#21

「のだめカンタービレ」21巻には、ラヴェル以外に、ベートーヴェンのピアノソナタ31番も出てくる。ピアノ教師のオクレールが「この楽章にあるのは『裏切り』『苦悩に満ちた試練』『落胆』人の嘆きのすべてがある。最後は疲れ果て、心もない」と評する曲だ。おそらく3楽章だろう。

この曲には、ルドルフ・ゼルキンが似合う。ゼルキンといえば、村上春樹『意味がなければスイングはない』の中に、「ゼルキンとルービンシュタイン」という対照的なピアニストを論じたエッセイがある。この中に、僕の好きなフレーズがある。スタインハートという人のゼルキン評だ。

「私は簡単なルートをたどるつもりはない。私は簡単なルートというものを信用しないんだ。この作品は簡単であるには、あまりにも素晴らしすぎる。だから私は違う通りを進んでみる。その先に何があるのかを確かめてみる」――その通りはしばしば彼を見事な場所に連れて行く。しかし時として、連れて行かない。

また、この曲は、かのグレン・グールドも録音している。グールドのベートーヴェンには、他のピアニストの様式とは何のしがらみもないが、これ以外の弾き方はないと思えるような説得力がある。

のだめアルゲリッチ#21

ということで、再び店に寄って「のだめカンタービレ」で何を弾いているのか、#21にさかのぼって読んでみることにした。しかし、21巻の中心は、孫RUIが弾くラヴェルのコンチェルトだった。ラヴェルなら、ついこの間、「さよならパスカル」(違うか)とかなんとかいうタイトルで書いたばかりじゃないか。

ただ、あそこで紹介したのは、(ロジェを含め)4人の男だったから、ここで女性を取り上げるのは意味のあることだろう。と言っても、女性ピアニストでラヴェルといえば、アルゲリッチ以外にない。

アルゲリッチのラヴェルは若ければ若いほどいい。小澤征爾とのリハーサルがあったので。若々しくジャジーなラヴェルといったら、こんな感じだったのではないか。

もうひとり、16歳の無名のピアニスト、Elizabeth Stricklandの素晴らしい演奏で2楽章を。(オーケストラパートを弾いている2番ピアノがうるさい。)こういう若い女の子の演奏で聴きたいなあ。

のだめフランソワ#22

昨日、偶然ある店にあった『のだめカンタービレ』の最新巻(22巻)を読んだ。15巻くらいから間が開いてしまったが、登場人物はあまり変わらないので、違和感はない。それより、巻の大部分がショパンのピアノコンチェルトなのには、ちょっと驚いた(ネタバレ?)。

案の定、店員が「この曲、実際に聴きたくなっちゃったんですけど」とたずねてくる。無理もない。聴いたことない人は、一冊、無音の紙面を見せられるんだから、つまらないよ。「たぶんフランソワのだと思う」と答えておいた。

で、家に帰ってきてYouTubeで検索すると、・・・あったあった。1楽章、オケを裏切る急ブレーキのテンポでピアノが入ってくる、といえば、この演奏がモデルのひとつになっているに違いない。200秒目から。

ついでに、オケの編成が変則的(小規模&立ち演奏?)で、ピアノもなかなかユニークな演奏で、2楽章を。

風邪引きの女性は美しい

この秋、新型インフルエンザが猛威を振るいそうだ。

いざ自分が罹ってしまって、熱と悪寒で意識が朦朧になっているとき、病院で点滴を打たれているときに、暇をつぶすのにふさわしい鼻歌を今から仕込んでおかなければならない。僕からは、堀込高樹の病院ソング「クレゾールの魔法」を提案しておきたい。

「♪純白のドレスよりマスクが似合うね
まなざしだけでじっと愛を交わそう
風邪引きの女性(ひと)は美しい」

インフルエンザって、風邪じゃないんだけどね。

パスカル・ロジェ禁止w

もう、こんなことは言わずもがな、なのだが、

パスカル・ロジェ:フランスのエスプリをこれほどまで豊かに表現できるピアニストは、ロジェをおいて他にはいない。

なんて、誰がいったのか。そんなことは、ありえないことだ。

試しに、つい最近YouTubeにアップされたロジェの演奏(ラヴェルのコンチェルトの動画)を見てみれば分かる。

なんだろう、このへっぴり腰は・・・。姿勢というよりも、格好が悪すぎる。音楽も、なんでこんなにおっかなびっくりなんだろう。「繊細」なんて、ほど遠い。オケも指揮もいいのに。例えば、

・アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリのような1楽章

・サンソン・フランソワのような2楽章

・レナード・バーンスタインのような3楽章

これらと比べて、ロジェのどこが優れているというのか。「エスプリ」とは何か、まるで知らないが、あんなソフトフォーカスをかけたというか、ピントの甘い、雰囲気で押し切るようなものではありえない。もっと明晰な意思であるはずだ。

なぜこんなに頭にきているかというと、高校生のとき、ある女の子から「誕生日プレゼントにドビュッシーのピアノ曲のレコードが欲しい」と言われた俺は、当時売り出し中の貴公子、パスカル・ロジェの録音を買いに行ったのだ。家に帰って、こっそり聴いた俺は、がっくりきた。これじゃダメだ。

俺は、その子に「ロジェのレコードを買ったんだけどさ、あまり良くなかったから、悪いけどあげられない」と言った。そのときは、笑って「あ、そう。いいよ」と言われたんだけど、いま考えれば、そこまで厳密にやらなくてもよかったのかなと。

いまはヴァルター・ギーゼキングとか愛聴してるけど、いくら演奏がいいからって、丸顔のはげたおじさんのジャケットのレコードをあげてもね。あんまり雰囲気良くないかなと思ったわけ。そういう意味では、ロジェのあげとけばよかったじゃんよ!

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