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「教育的配慮」を論破せよ、あるいは猫を飼うことの重要性

教育とは、人を現実に適応させるためのレッスンである。病気に対する免疫をつけるための予防接種のようなものだ。それは知識であったり、経験であったりする。しかし、実際の「教育者」や「教育関係者」が、往々にしてこの目的とは真逆な振る舞いをするのはどういうわけだろう。現実から簡単に目をそらさせたり、単純すぎる建前や理想など現実とは別のフィクションを刷り込もうとしたりする。「教育的配慮/教育上の配慮」といえば、子どもの目や耳をふさぐことと同義語だ。…そういう配慮がまったく不要とはいえないが、重要なのは大人になるまでに、いかにしてその現実を受け止めさせるかということ。放置することが教育上の配慮である段階も十分にありうる。しかし教師は「そんなことは卒業してからやって」というだろう。

このような怪現象が起こるのは、教育者の「現実」の捉え方が「建前」でいびつになっているからではないか。人間は生まれながらにして尊重される建前がありつつも、他人の役に立たない人間は他人から冷淡に扱われるのが「現実」であることから出発すべきだ。だからこそコンビニのレジ打ちが正しくできる程度には算数が出来なければならない。

一方で、いくら勉強できても人には好かれず、愛嬌があれば他人から重用されるのも「現実」、男をうまく扱えて玉の輿の乗れれば女は幸せになることがあるのも「現実」である。思うようにいかないのが常態なのも「現実」であり、うまくいくときには自分の努力と運の両方が必要であり、だからこそ思うようにいかなくても人は幸せを感じるようにしていくものだという知恵もそこから生まれる。相手の自由に対して寛容にならなければ、自分も自由になれないのも「現実」である。

あらゆる病気に効く予防接種が存在しないように、目的としての「現実」を何にフォーカスするかによって、手段としての「教育」の中身が変わる。教育課程に準拠した授業を行うことだけでなく、どんな現実にどう適応させるために、どういう教育が必要なのか考えたことのない人は、文字通り教育者の資格がない。たとえば寛容さのレッスンには、道徳よりも「猫の飼い方」の授業の方がより効果的である。

ところが教育専門家は、学科試験の結果や、浅い意味での「健全」などの建前が目的化して「現実」に精通していなかったり、「現実不適応者」が排除されるしくみがなかったり、統制不能な猫よりも忠実な犬を飼うことが多かったりして、結果どちらかというと教育に不向きな人たちが一般社会よりも高い割合で養成される傾向にあるのは構造的な問題である。

少なくとも外野は、教育関係者が「教育」という言葉を使うとき、彼らがフィクションにとらわれて思考停止をしていないか、単に彼らの保身のために使われていないかを見極めておくべきだ。見分けるためには、それが本当に教育を受ける人が向かい合うべき「現実」との関係で使われているかどうかを検証すればよい。

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