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小言に耐えてはいけない

母が検査の結果、肺に腫瘍があるということになったらしい。悪性であろうがなかろうが、病気であろうがなかろうが、もう20年は生きないだろう。あと10年くらいで平均寿命かもしれない。

実の母がこの世を去ることは、あまりイメージしにくいが、確かにショックを受けることになるかもしれない。それは、死ぬとは思わなかった人が死ぬ意外性であり、自分も例外なく死ぬことの何よりの証左と思われるからだ。

で、別にそれをあらかじめ準備していたわけではないが、ロラン・バルトの「喪の日記」をパラパラ眺めたりしていた、今日このごろ。母の死を機に書き留められた、論文でも小説でもない断片。286頁には、あの『明るい部屋』の一節、

「母は、わたしたちが一緒に暮らしたあいだずっと、ただのいちども<小言>をいわなかった」

の元となる文章が3つほど、推敲されているのが興味深い。特に、

「マムは、いちどもわたしに小言を言わなかった――だから、わたしは小言には耐えられない」

という文を読んで、微笑ましくなった。

いまの日本の「ゆとり」君たちは、会社でおっさんたちに理不尽だったり正論だったりする小言を言われながら、それを受け入れることが自分の成長には当たり前と言い聞かせて、日々を生きている。しかし、そんなことをしても、ロラン・バルトになれないどころか、ひたすら遠ざかっているわけだ。

もし自分がロラン・バルトになりたければ、まずは「わたしは小言には耐えられない」と表明して、その場から去るべきだ。その手の成長は拒むことだ。これは非常に重要なことだと思う。

老眼と高血圧

本を読もうとして、活字が相当見えにくくなっていることが判明した。老眼が進みすぎたらしい。老眼鏡をかけていないから分からないが、もう見えないものと考えていいのだろう。すなわち、私の人生における活字からのインプットは、おおかた終わってしまったということだ。まあ、いまでもアウトプットに要する資源の半分くらいは、20歳以前に仕入れたような気がしていたこともあり、そう大勢には影響はないと予想される。しかし、フィジカル(身体的/物理的)な理由でインプットを断念することは想定していなかったので、あーこんな日が来るものかという感慨がある。

ときを同じくして、血圧も急上昇している。上が155、下が105というのが常態で、頭は痛いしダルイし、食事のあとなどはさらに上がって、気分が悪くなって横になるほどだ。こういった老人性を疑われる体調不良が来るのも、予想より早かった。人生は折り返し地点を確実に過ぎている。しかし老いの構造については、とりあえず以前にもブログに書いたように、いちおう整理はしてあるから、そんなにうろたえることはない。

これも一種の老いかもしれないが、自分は他人とこうも違うものなのかという感覚と、それでもいいやという感覚が強まっている。みんななんでそんなに世相に合わそうとしているのかということが、まるで分からなくなっている。ネットの新サービスなんてほとんどどうでもいいし、フジテレビのデモも、反原発デモも、遠い別の国で起こっていることのようだ。そのくせ、誰もチェリビダッケなんか聴こうとしない。

ちょっと足を伸ばせばすぐに当事者として参加できるのかもしれない。しかし、新宿で柄谷行人さんがマイクを取ったり、いとうせいこうさんがラップをしたり、デモの参加者が機動隊を殴って逮捕されたりしていることをツイッターで横目で見ていても、おっさんたちすげえなという感想しか浮かばない。何が彼らをそうさせているのか。そんなことを考えながら、近所の酒屋で買ってきた赤ワインを空け、チーズをつまみ、ベランダでぼんやり空を見ながらときどき居眠りしたりしている。本は読んでいない。もう読めないからだ。


耳はまだ聞こえるので、チェリビダッケの悲愴を聴くことができる。これでもう十分。

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