「貧すれば鈍する」空気が濃厚になってきた
「2010年にやり残したこと…」から1年。もうこんな年の瀬の、こんな時間になってしまった。もう休みたいが、年内に書く時間もないだろうから、とりあえず書く。
繰り返し書いているように、世紀末というのは次の世紀の最初10年くらいは引っ張るものであり、2011年はそういう意味で、前世紀の世紀末を終えた最初の1年ということになる。
そこで起こったのが東日本大震災だが、語弊はあるがこの震災も、この地に生きるものにとってひとつの日常であり、ことさら事件性を持たせなくてもよいような気がする。それによって開いてしまったパンドラの匣の扱いは別として。
神に対する感覚がなぜ我々だけ違うのか、と考えたことのある人なら、「ああ、これか」と思ったのではないか。これだけ根こそぎやられる民族は、他にはそうないのだ。
そういえば、そうだ――。この、周期的に根こそぎなくなるという経験が、我々の文化、価値観の裏側にべっとりと貼りついている。被害者への哀悼の念を持ちつつ、これが我々の「日常」の根底にあるものだ、日常の一端なのだと考えることもできるだろう。特に、東北文化との関わりにおいては。
震災が3月に起こったのも、興味深い。凍てついた大地にやって来る「春」とは決してのどかなものではなく、野蛮なものだということを再認識した。まるで100年前に書かれたストラヴィンスキーの「春の祭典」(1913年)の世界だ。あらためて津波の映像と曲を合わせてみると、あまりにもマッチしていることに身震いする。
今年いちばん思い浮かべた言葉は「貧すれば鈍する」という言葉だった。経済的に貧しくなって追い詰められた人が、「武士は食わねど高楊枝」という文化を引き継がなくなると、どうなるのか。垣間見ることが少なくなかったような気がする。
もともと「貧すれば鈍する」という言葉の源には、「経済的に貧しくなったからといって、心までいやしくなってはいけない」という故事が確かあったような気がするが、どうだったか。しかし現状、世の中を満たしているのは「貧してるんだから鈍してもしようがないだろ」という開き直りというか、積極的な肯定の空気だ。
ただ、それ自体は、社会の再活性化にもつながるし、そう悪いことでもないと思っている。貧しくて死ぬくらいだったら、持てるものから奪ったっていいというたくましさは、肯定せざるをえない。ただ、もっと違う「卑しさ」の空気が濃くなっていると感じるのは気のせいか。
関係はよく分からないが、震災後に「絆」と言い出されたことは、後に政府が大型増税を打ち出す布石として働いていることだけは間違いないと思う。本当に心から、みんな絆と思っているのか。テレビ見過ぎなバカなババアどもが、洗脳されているだけなんじゃないかと。
そんな絆といえばソーシャルメディアだが、そこに広がっているのは、承認欲求コジキたちのゾンビの群れであり、「絆」を感じられなければ生きていけない(本当はもう死んでるのに)という阿鼻叫喚である。なぜそんなに寂しいのか。
まあ、承認された経験を強く持つ(あるいは自分で無理やり自分を承認する)ことがなければ、そっちに流れてしまうのだろう。ただ、よく引用されるマズローの使い方に、倒錯が見られるような気がしてならない。
欲求段階説とは、すでに「安全の欲求」を満たした人が「所属と愛の欲求」「承認の欲求」という高次な欲求を持つという話だったはずだが、いまは承認の欲求が肥大化して、相互承認(の幻)をやたらと他人に押し付ける(のに成功した)人たちが、そこを手がかりにして自らに対する愛を要求し、所属を要求し、さらには安全の欲求満足を保証しろと声高に叫んでいる…すなわち低次な欲求も満たそうとしているように見える。
見かけ上の承認欲求至上主義者が、なんで自分のより低次な欲求が満たされていないのだ、とゴリ押しして喚くわけだ。…たぶん、その様子が「貧すれば鈍する」という言葉を思い起こさせるのだろう。ソーシャルメディアにおける(芸のない)「セルフブランディング」(人のつながりをカネに代える…それも相手にそうと分からせずに)という言葉の気持ち悪さの理由も、そのあたりにある気がする。
経済的な貧しさが、税金による救済要求につながり、その欲求不満が「絆」という言葉に形を変えて、さらにソーシャル乞食どもの…といったつながりが、なんとなくあるように見えるけど、確かなことはよく分からない。ま、自分が最初で最後の読者であるようなブログに書く備忘録としては、こんなもんでよいだろう。
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